西洋の一インド学者を送る

Bh. クリシュナムルティ

 マレイ・バンソン・エメノー教授 (1904-2005)は、西洋インド学者の最長老でありその卓越した業績で知られるが、8月29日早朝、カリフォルニア州バークリーの自宅で就寝中に逝去した。享年101歳。インド学全般、わけてもドラヴィダ語研究の分野での学究と著述一筋の生涯であった。学問の内容と方法の両面で師の影響を受け、サンスクリットとインド言語学の分野で活躍しインドの学会で中心的な位置を占めている弟子も輩出した。インド人の学生たちは皆、インド伝統の師弟制度のグルとして師を慕った。筆者もその一人である。

 エメノー教授は、1904年2月28日、カナダ・ノバスコシア州ルーネンバーグ生まれ、1923年にダルハウジー大学を優等賞で卒業後、ローズ奨学生としてオックスフォード大学ベリオルカレッジで学び、1926年、再び優等賞で卒業。博士号はイェール大学で1931年に取得し、ジャンバラダッタのVetālapañcavinśatiについての博士論文は1934年アメリカ東洋学会によって出版された。大学院時代は、フランクリン・エジャトン、エドワード・サピアといった大学者の指導のもとで古典学、言語学、人類学を学ぶ。

 1935年から1938年にかけてインドに滞在し、無文字言語である南部のトダ語、コタ語、バダガ語、コダグ語や中部のコラーミー語とこれらの言語の話し手の文化について長期間のフィールドワークを行った。現在パキスタン領になった北西部への旅行では、ブラフーイー語の資料を収集している。以後、これらの言語について執筆した論文・記述文法・口述資料は数十篇に及ぶが、中でも重要なのは、『コタ語口述資料(全4巻)』、『ドラヴィダ系言語コラーミー語』、民俗詩学の分野を開拓した『トダ族の歌』、『トダ語文法および口述資料』である。1940年に開設されたカリフォルニア大学言語学科に主任として着任、1943年から1971年までサンスクリット及び言語学講座教授を務め、名誉教授の称号を贈られた。

 エメノー教授の学識と著作は、インドの大語族であるインド・アーリヤ語とドラヴィダ語を軸として、言語学のみにとどまらず、先史学・人類学・民族学・固有名詞学・民俗学といった幅広い分野にわたる。著書25冊、書評98本など、285篇に及ぶ著作によって、インド学のありとあらゆる分野に足跡を遺す。世界のインド学へ計り知れない影響を与えたその研究の中でも、不朽の業績というべき分野が二つある。1956年に発表された古典的論文「言語圏としてのインド」は、インド・アーリヤ語、ドラヴィダ語、ムンダ語、チベットビルマ語という4つの系統の異なる語族の諸言語を話す人々が、何世紀にもわたってインドの大地で言語的にまた文化的に融和し、言語的に収斂した構造によって統一感のあるモザイクを作り上げてきたことを、横断的に渉猟した資料から対照事項を特定することによって示す、という手法を打ち立てた論文である。この手法による一連の論文は、1980年にはスタンフォード大学から『言語と言語圏』というタイトルの個人論文集として出版され、今では、世界各地の言語接触と収斂的言語変化に関する独立した研究分野とみなされている。教授は、我々の言語と文化の一見ばらばらにみえるパターンに隠されている「インドらしさ」に学問的実体を付与したといえる。この延長として、南アジアの共通性は、単に「言語圏」のみにとどまらず「言語行動圏(社会言語学的エリア)」「文化圏」「翻訳圏」としても捉えられるようになっている。1961年に出版され1984年に大幅に改定された『ドラヴィダ語語源辞典』は、教授の業績のもうひとつの金字塔というべき著作である。共著者である故バロー教授(オックスフォード大学サンスクリット講座)も、傑出したインド学者であり、二人の大学者のライフワークとなった。24のドラヴィダ系言語の単語を語源の共通性によって分類したこの辞書のデータのうち、少なくとも10の無文字言語については著者自身の現地調査と分析に基づく一次資料が提供されている。インド諸言語研究や言語学研究に携わるすべての学徒は、今後末永くこの業績に多くを負うことになろう。

 エメノー教授の研究業績は各方面から認められている。世界の14の学術団体に会員として迎えられたが、一部をあげる。1952年にアメリカ哲学協会の会員に選出、1957年ベトナム国立人文科学院名誉会員、1964年インド言語学会名誉会員、1969年英王立アジア学会名誉会員、1970年アメリカ学士院会員、1993年英国学士院在外会員。1949年に米言語学会、1964年から1965年には米東洋学会のそれぞれ会長に選出された。1984年10月にフィラデルフィアで開催された第6回国際サンスクリット会議では議長を務めた。名誉博士号を授与された大学は少なくとも4つある。1968年シカゴ大学、1970年ダルハウジー大学、1987年国立ハイダラーバード大学、1999年V.K.カーメーシュワルシング・ダルバンガ・サンスクリット大学。

 エメノー教授夫妻は学問中心の質素な生活を送っていた。住まいの至るところに本が並んでいたが、テレビはなかった。晩年に至るまでパソコンには無縁だった。論文も著書も、ドラヴィダ語語源辞典の膨大な手書き資料も、すべて自分でタイプした。タイプライターはオリンピア社製のポータブルのもので、言語学記号が打てるように加工されていた。夫妻は学生たちにも親しく接し、夕食に招くこともしばしばあった。インド人研究者から訪問の都合を伺う電話を受けると、誰でも必ず食事に招待した。キティ夫人が1987年に逝去してからも、18年の間、教授は自宅で独り暮らしを続けた。筆者の近著『ドラヴィダ言語学』(2003)は教授に献呈させていただいたが、その申し出を喜んで認めてくださった。

 教授とともに、インド学とドラヴィダ研究の栄光の時代が去る。しかし、教授の業績とその学問に向かう姿は、インドや諸外国の研究者たちに、幾世代にもわたって影響を与え続けることだろう。

バドリラージュ・クリシュナムルティ博士(フィラデルフィア大学)
王立エジンバラ学院会員
オスマニア大学言語学講座教授
国立ハイダラーバード大学前学長